アブラハムは、“Medri-Bahri”と呼ばれていた頃のエリトリアのアスマラ近郊に住む少年でした。一帯の長であった父親は、非常に裕福で多くの妻をもち19人の子どもがいたと言われています。やがてトルコの侵攻がこの地にも及び、激しい防衛戦に巻き込まれた末に敗れてしまいます。当時8歳だったアブラハムは、敵軍に捕らえられ、奴隷としてコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)まで連れていかれてしまいます。姉ラガンは、最愛の弟を救うために死に物狂いになり、海を泳いで助けに行こうとしますが、弟が乗せられた船にたどり着く前におぼれて死んでしまったと言われています。
アブラハムは、コンスタンティノープルのスルタンの宮廷で一年ほど働かされていました。当時、ロシアは、ピョートル大帝の時代であり、トルコ駐在のロシア大使サバ・ラグジンスキー伯爵は、大帝のための“小さな賢いアフリカ人奴隷”を捜し求めていました。こうしたアフリカ人奴隷を持つことは、当時のヨーロッパの大国の宮廷ではひとつの慣習でした。アブラハムは“献上品”として選ばれ、ロシア大使は、スルタンの高官に賄賂を贈り、アブラハムをすぐに購入するとロシアの大帝のもとへ送りました。
ピョートル大帝は非常に喜び、アブラハムにリトアニア・ヴィリニュスの正教会で洗礼を受けさせます。大帝自身がアブラハムのゴッドファザーになり、ゴッドマザーはポーランド女王が務めました。アブラハムはすぐに大帝の寵臣となり、パリなどヨーロッパ各地への旅行に同行するようになります。アブラハムは軍隊に入隊し、勇敢さと指導力で急速に頭角を現していきます。フランス滞在時にはルイ15世の摂政フィリップ公の軍隊に仕え、スペイン戦で功績をあげるも負傷し帰国します。帰国後には、大帝の仲人で貴族の娘と結婚したと言われています。
アブラハムはつねに、アフリカ人としてのアイデンティティを誇りにしており、1735年までに、自身の名アブラハム・ペトロフにアフリカの有名な将軍の名「ハンニバル」を加え、アブラハム・ペトロビッチ・ハンニバルと改称しました。1752年には、ハンニバルは少将に昇進し、ついに8歳のときにエリトリアから連れ去られた幼い少年は、ロシア全軍の軍事技術統括となったのです。
このアブラハムの曾孫にあたるのが、アレクサンドル・プーシキンです。『エヴゲーニイ・オネーギン』や『スペードの女王』『大尉の娘』などで知られるプーシキンは、ロシア近代文学の父、国民詩人とも呼ばれています。時の政府から疎まれながらも、数々の作品を発表しロシア近代文学の礎を築きます。曽祖父のアブラハムと同じく、プーシキンもまた、アフリカ人のアイデンティティに非常に誇りを持ち続けました。また、文学的才能だけではなく、ウィットや勇気、品位をそなえたプーシキンは、当時の最も魅力的な婦人達の恋人でもあったということです。38歳という短いプーシキンの生涯は、美貌の妻に言い寄るフランス人近衛士官との決闘で閉じられました。
プーシキンが曽祖父のアブラハム(イブラヒム)を描いた未完の伝記的小説。書籍の日本語版タイトルでは「エチオピア人」とされていますが、アブラハムはエリトリア人です。またロシア語の原題に近い日本語は「皇帝の黒奴」で、過去に出版された全集では「ピョートル大帝の黒奴」として収録されていますが、明窓出版の本書では差別語をさけるために改題されたとの記述があります。