以下はTesfa News 2013年9月4日の記事 The Role of Sinclair Oil Corporation in the Eritrean Federation with Ethiopia の暫定日本語訳になります。原文(英語)はこちらでご覧ください。
https://www.tesfanews.net/the-role-of-sinclair-oil-in-the-eritrea-ethiopia-federation/
(By Arba_Gorash)
エチオピアのオガデン地方は、石油資源豊な多数の湾岸諸国を廃業させうるほどの、世界最大の未開発埋蔵石油・天然ガス田の上に位置している。
英米の石油会社が、将来的な石油不足に対する戦略的な留保分として、故意にオガデン地方を未開発に留めていたのである。しかし、中国やスウェーデンといったエネルギーに飢えた国々は、今やその地域での石油掘削を目論んでおり、このことが今度は、エチオピアが自分たちの従属国であることを理由にこの埋蔵石油に対して固有の権利を有すると信じている英米の石油会社に懸念を抱かせている。
30年にわたるエリトリア・エチオピア間の戦争の原因が何だったかについてよりよい理解を得るためには、1945年9月27日にとある米国の石油・天然ガス会社によって、当時の米国国務長官であったJames F. Byrnes氏に宛てて書かれた書簡を見返すことで十分であろう。
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シンクレア石油会社
ニューヨーク五番街630
1945年9月27日
国務長官James F. Byrnes閣下
ワシントンD.C
国務長官殿
弊社はつい最近エチオピア帝国政府との間でエチオピア国内の石油開発に対する合意を取り付けました。
貴殿はこの合意の要請について個人的にお聞き及びであったことでしょう。残念なことに、エチオピアは内陸国であり、輸出用の船舶輸送のための直接的な海港がありません。我々の石油開発が成功した場合には、必然的にエチオピアから適切な海港に、相応しいパイプライン設備を、また輸出用船舶輸送拠点を建設せねばならないでしょう。
我々がエチオピアにおける開発計画を遂行するならば、適切な海港を手に入れるべく、エリトリアがエチオピア固有の領土と認められることが、決定的に重要になります。
もしエリトリアがエチオピア以外の勢力の支配下に置かれるようなことになれば、我々の開発計画全体に深刻な遅延をきたし、重大な影響を被るでしょう。したがって、私はエリトリアに関してのエチオピアの要求を貴殿が支援されることを至急に要請いたします。
貴殿への私的な情報として、国外の海港におけるパイプラインの建設に関する、弊社とエチオピア帝国政府との間の補足協定の複写写真をここに添付します。このプロジェクトに対する、エチオピアによるエリトリア獲得の重要性がここから容易に見て取れるでしょう。
敬具
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1944年、米国の石油会社、シンクレア石油は、エチオピアとの協定に署名し、オガデン地方での石油探鉱活動を始めた。1951年までに、シンクレア石油はオガデン地域の東側に17の試掘井を掘削した。オガデンの堆積盆地は350,000平方キロメートルの土地を占める。シンクレア石油はゲラディ地方に掘られた試掘井のうち一つへの石油流入の存在を確認した。
第二次世界大戦後、国連はエリトリアの地位に関する非常に長期にわたる審問を執り行ったが、ここでは超大国同士がこの国の未来における利害関係を巡って相互に張り合った。
当時最後の統治者であった英国は、スーダンとエチオピアとの間で、キリスト教徒とイスラム教徒を分かつ形でエリトリアを分割する提案を示した。
この案はエリトリア人によって即座に拒絶された。キリスト教徒、イスラム教徒両方から拒否されたのである。彼らは、包括的な独立を果たし、完全な領土権を保つことを望んだのである。
米国の見解は当時の首席対外政策顧問であったジョン・フォスター・ダレス氏によって表明された。それは以下のようなものである。
「公正の見地からすると、エリトリアの人々の意見は一考に値するに違いない。しかしそうは言っても、米国の紅海地域における戦略上の関心と、安全保障や世界平和を考慮すると、この国(エリトリア)が我々の同盟国であるエチオピアと結びつけられることは必要不可欠となるのです。」
John Foster Dulles, 1952年
国連の一般投票は46対10で、エリトリアがエチオピアとともに連邦となることを議決した。これは後の1950年12月2日に決議書390(V)中において規定された。エリトリアは独自の議会と行政を持ち、かつてはエチオピア議会であって今後は連邦議会となるものの中で代表を立てることとなった。
1961年に、30年にわたるエリトリア人の独立運動が開始され、エチオピア皇帝のハイレ・セラシエが連邦制を解体してエリトリア議会を閉鎖した。皇帝は1962年にエリトリアがエチオピアの14番目の州であることを宣言した。
しかしなぜエリトリアなのだろうか。ソマリランドやケニアは両者ともに海へのアクセスがあり、エリトリアよりもオガデン地方のシンクレア社の石油領域により近いのではなかろうか。
1951年1月11日に軍事援助オフィスの副所長代理によって書かれたメモによれば、ソマリランドもケニアも両者ともにエリトリアほど、エチオピアにおけるシンクレア石油の石油利権に対する関心に適うものではない。
「エチオピアと英領・仏領ソマリランドとの間の国境と管轄の問題については、各政府間にて交渉中である。こうした交渉についての米国の重要な関心事は、エチオピアにおいてシンクレア石油会社が石油開発をする権利が、そうした権力間での領域の調整によって侵害されないように気を付けることだ。もしも、オガデン東南部の相当な区域(これは英領ソマリランドに併合されるのである)と引き換えに、英領ソマリランドにあるゼイラへの回廊地帯をエチオピアに譲渡する提案に対して合意が取り付けられたならば、英領ソマリランドに譲渡されたオガデンの当該地域における下層土資源に対するエチオピアとシンクレア社の権利は有効であり続けるだろうと、英国は我々に請け合った。」
しかしながら、30年にわたる厳しい闘いののち、エリトリア人は独立を勝ち取り、1993年に独立国家エリトリアを宣言した。
「理屈から言えば、エリトリア国(人口300万人)は存在しない筈なのだ。分離独立を求める戦士たちは、30年にもわたる闘いの中でエチオピアを倒せるはずがなかった。彼らには人員も武器も不足しており、すべての同盟国に見捨てられ、あるいは裏切られていた。彼らの運動は絶望的だった。彼らは気迫によって勝利した。また鋼のように堅い連帯や決意には、エチオピアの近代的兵器や超大国の支援や経済的優位性をもってしても抵抗できなかったのである。ナクファの山岳要塞の塹壕で10年にわたり見られたエリトリア人の精神は彼らをゼロの状態から国家に成し上げた。というのも、1993年についに独立が実現したのである」
— Johanna Mcgeary and Marguerite Michaels, 1998年3月30日
1969年に、ARCOはシンクレア石油会社を買収した。