都市遺跡
コハイト考古学遺跡は、アスマラから南へ120km、南部地方の海抜2600m地帯に位置しています。アディ・ケイの町から、東に15kmほどになります。
プレ・アクスム時代(紀元前500年)の都市で、1~4世紀のアクスム時代に栄えたものです。コハイトは、古代ギリシャにおいて “Koloe”と呼1ばれた町のことだと考えられています。コハイトの立地は、古代紅海世界において、北方の港町アドゥリスと、南方のマタラやアクスムの間の交流の交差点という特性があり、そのため地域の最重要政治的中心地でした。
国立博物館の調査で750の遺跡が確認され、土塁や、岩絵、彫刻、円柱構造、墓所、ダム、貯水池、ネクロポリス(集団埋葬地)、時計塔、窯などが発見されました。この地域は、農業活動と同様に、宝石や象牙やお香で知られていました。
コハイト遺跡は世界遺産候補の一つであり、1996年に始められたマネジメントプランは、遺跡保全のため現在も継続中です。
エジプト人の墓
コハイトの北部には、「エジプト人の墓」と呼ばれる古代の墓の遺跡があります。完全にエジプト起源のものと証明されたわけではりませんが、墓の印象からそう呼ばれています。平坦な岩山の頂上部分に、数メートル掘り下げて作られた墓で、中に入ると、花の文様が刻まれた壁や、石棺が置かれていたであろう空間を見ることができます。
コハイトの岩絵
1930年代からの調査により、エリトリアは、アフリカの角地域で最も岩絵が集中している地域だと考えられるようになりました。主なモチーフは、コブのない牛と、家畜化されたコブ牛です。家畜への描写が豊かであるのと同時に、野生動物をほとんど描いていないことから、牧畜民的な性質のものと言えます。
岩絵の研究研究により、完新世中期の気候変動が牧畜民のエリトリアへの移住を促したことがわかっています。この人々が、エリトリア各地に数々の岩絵を描いたのです。これらの岩絵は、階層化したヒエラルキーをもつ秩序だった社会の出現以前に描かれたと考えられ、つまり、複雑化した社会が台頭した紀元前2000年前よりも以前のことと考えられます。つまり、エリトリアの岩絵は、今から4000年以上前に描かれたものなのです。
コハイトでは、“グランドキャニオン”と呼ばれる大渓谷の近くの洞窟に、家畜などを描いた岩絵があります。崖の上から10~20分ほど下ったところにあり、観光客も訪れることが可能です。整備された道ではないので、ガイドの同行が望ましいでしょう。
シバの女王のダム
コハイトにおいて歴史的な意味で特筆すべきなのは、その規模と共に、シバの女王に関係があるとされる古代のダムがあることです。サフィラ・ダムは、長さ60m以上にわたって築かれています。建造年代は不明ですが、アクスム王国時代より以前だと考えられ、イエメンの水利システムとよく似た構造をもつことから初期のシバ王国との関係が考えられています。30年ほど前に土地の人々の利用に資するために直されましたが、オリジナルの部分への脅威とはなっていません。現在も、地元の人々が水を汲みに来る姿がよくみられます。
コハイト遺跡マネジメント資料(PDF 8.59MB)